小説置き場。
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むわっとした熱気が全身を包み込み、シャワーのように蝉の鳴き声が降り注ぐ。
そんな夏休み真っ盛りの八月初め、柏木和也は小学校の校門の前に立っていた。荷物は何も持っておらず、薄手の長袖のTシャツは汗で背中に張り付いている。一歩足を踏み出すと、短パンのポケットに入れた鍵がキーホルダーとぶつかって僅かに音を立てた。
今日は小学校の飼育当番なのだ。
地元の少年野球が校庭で練習している脇を通り過ぎ、正門とは校庭を挟んで反対側の飼育小屋に向かう。緑色に塗装された金網が壁代わりのその小屋は、高学年になった和也が何度もドアで頭をぶつけるくらいには小さかった。入ってすぐの部屋には兎が四羽、右手の部屋には鶏が五羽飼われていて、鶏の部屋にはどこから入り込んできたのか雀が三羽、屋根の近くで忙しなく飛んでいる。鶏の部屋とは反対側にあたる左手の部屋では羽のほとんどが抜け落ちた孔雀が堂々と歩き回っていた。そんな飼育小屋には当然ながら鍵がかかっていて、飼育当番は職員室にまで鍵を取りに行かなければならないのだが、和也がその事を思い出したのは小屋に着いてからだった。
照り付ける太陽に、命を削って鳴き続ける蝉。じわりと滲み出る汗にうんざりしながら踵を返しかけた和也だったが、飼育小屋の裏手から聞こえた物音に動きを止めた。もしかして、との思いで飼育小屋裏の餌小屋に向かう。扉の鍵は開いていた。ぎぃ、と建て付けの悪いドアを開くと、中では和也の同級生の安藤優司が、兎の餌がたんまり詰まったポリバケツに塵取りを突っ込んでいるところだった。
「来たんだ、安藤」
意外な心地がして和也は呟いた。本来は二人一組の飼育当番の、和也の相方が優司だ。だが先生の言い付けなどは簡単に破り、授業もしょっちゅう抜け出すような優司がわざわざ飼育当番の為に学校に来るとは和也は微塵も思っていなかった。
「来なかったらあいつらご飯食いっ逸れるじゃねぇか」
固形状の兎の餌を塵取りいっぱいに掬いとった優司がポケットに挿していた鍵を和也に投げ渡す。
「開けといてくれ」
ポリバケツの蓋を閉めながらの言葉に、わかったと和也は頷いた。
優司は優秀な当番だった。一体誰から聞いたのか、食べ残しの古くなった固形餌をまとめ、小屋内に貯まった糞と共に堆肥置場に捨てに行くよう和也に指示を出した。和也が帰って来た頃には、普段はどうやっても水の出ないはずの、飼育小屋脇に引かれた水道からいとも容易く水を出して泥のついた水入れを洗っていた。渇ききった校庭に小さな川ができている。突然の洪水に驚いた蟻が一匹溺れていた。
「詳しいんだね」
「去年委員だったからな」
蝉の暑苦しい鳴き声に水音が混ざるだけで随分涼しく感じる。
「後は何するの?」
「孔雀と鶏のところのやつも洗う」
優司が洗っているのは兎小屋の水入れらしい。顔を上げた優司と目が合った。優司の真っ黒な瞳はただ一言持ってこいとだけ言っていた。
孔雀のところから水入れを取るのは簡単だった。和也の存在を歯牙にもかけないのだ。対照的に大変だったのが鶏だ。何故かやたらと和也の後を付けてくるため、兎小屋に入ってしまわないように気を使う必要があった。そのせいで入る時と出る時の二回、和也は入口で頭をぶつけている。そうこうして回収した泥がこべりついた水入れを持って、和也は水道に向かった。優司がしゃがんだ状態で綺麗になった水入れに水を貯めている。少し丈の短いTシャツが上に寄って、背中が少し出ていた。
笑ってやろうと和也がそこに目を留めると、痣のようなものが背中にはあった。ほとんどの人なら痣のようなもの、で済まされるもの。だが和也にとってそれはあまりにも身近なものだった。それの正体に気付いた瞬間、和也の脳裏に母親の怒鳴り声が響く。
――どうして言うことをきけないの!
――静かにしなさい!
普段は優しすぎるくらいに優しい母親だ。だが、一度怒るとどうにもできなかった。物を手当たり次第に投げ付けられた事も、気が済むまで殴られた事も何度もある。でもあの痣はそれとは少し違う。あれは、火のついた煙草を押し当てられた時にできる火傷の痕だ。ごめんなさいごめんなさいやめてお母さん、熱いよ……。
ひとしきり暴力を振るった後、母親は部屋を出ていく。それからしばらくして、今度は泣きながら和也に謝るのだ。
――ごめんね和也、痛かったよね。ごめんね、ごめんね……!
怒らせると怖いが、それでも優しい母親が和也は大好きだった。他の大人は嫌いだ、皆してお母さんを責めるから――。
「おい、柏木――?」
優司の声と共に母親の声は消え去った。入れ代わりに空気いっぱいに広がった蝉の声が和也を駆け抜ける。纏わり付く湿気が和也に今いる場所を思い出させた。気付けば、優司が目の前に立っていた。
「あれ、どうかした?」
「どうかしてるのはお前だ。熱中症か?」
優司の濡れた手が和也の額に触れる。ひんやりしていて気持ちがいい。熱と共にさっきの母親の声の余韻も消えていきそうで、和也は目をつぶった。少しして、優司の手が離れる。
「あんまりよくわかんねーな」
「大丈夫だよ、ちょっとくらっとしただけだし」
笑い方を忘れた顔で無理矢理笑顔を作って和也は笑いかけた。優司がそれって大丈夫か……? と呆れながら呟く様子に、作り笑いは成功したようだと和也は胸を撫で下ろした。それでも訝しげな顔をしている優司をごまかす為に、そういえば、と和也は口を開いた。
「さっき背中見えてたよ」
途端に優司の雰囲気が硬くなった。失敗した。よりにもよってこの話を切り出すあたり、自分で思っていたよりもあのフラッシュバックに追い詰められていたのかもしれない。
「見たのか?」
信じられないほど低い声で優司が問い掛ける。そこで和也はようやく優司も同じであることに思い至った。顔が、上げられない。
「……うん」
気付くべきではなかった事に気付いてしまった。和也が自分の痣を隠すのに必死なように、優司もまた努力していたはずだった。和也の様子を見て優司も何か感じたのか、低く呟く。
「……お前もか?」
和也の体がびくりと跳ねる。思わず交差した黒色の瞳も揺れていた。すぐに地面に視線を落とし、和也は僅かに頷いた。それに優司が気付いたのかはわからない。永遠のように感じられる僅かな沈黙が流れた。蝉の声に、バッティング練習を始めた少年野球チームの球音が空に吸い込まれる。
「誰にも言うなよ」
優司はそう言うと、和也の手から砂やら糞やらで汚れた水入れを奪い取った。それから立ち尽くしたままの和也の前で兎の水入れと同じように洗いだす。
「柏木」
顔は水道に向けたまま、優司が呼び掛ける。先程までの声音が嘘のように、軽い。
「水、兎のところに持ってけよ」
働く事を放棄していた和也の頭がようやく回りだした。優司の隣に置かれた水入れを取りに行く。
「ねぇ安藤」
ふと思い付いて和也は口を開いた。
「何だよ」
「俺も洗いたいんだけど」
優司がなんとも微妙な顔をする。
「……楽しい事でもねぇぞ」
それでも優司は言いながら、脇に置いた水入れを持って立ち上がった。
(100201)
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こんな小六いてたまるか。
大きくなると和也が上っ面だけの社交的人間、優司が医者志望の素行不良になって、高校は別だけど大学は同じになるのかなぁと思っています。
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